ここ数日の

人やモノコトの平等をとくとき、考えたらおわりです。考える時点で平等じゃない、考えられるものは真実ではないからです。
考えることではなく、感じることが大切、私たちの求めているものなのだと思います。考えても意味ないし。

私たちは水槽の中の魚、籠の中の鳥、宇宙の中の人間ですが私はただその中の世界に圧倒されているだけで地球を楽しみきれていません。光を知り熱を知り電気を知りガラスを知り、色を知りましたが、広大な大地に1人残され何が出来るものかといったところです。

私はオーストラリアに行きたいので行こうとしていますがなぜオーストラリアなのか。目的は海と地震の少ない環境と文化なのですが、なぜこんなにも惹かれるのかは分かりません。

英語は、結構好きです。言語として。日本語も好きだけど言語は文化の1部として捉えた時のソレが好きなんです英語。
邦画をディスっているわけではないのですが、ハリウッド作品などと比べるとなぜこんなにも演劇感が出るのだろうと疑問に思っていましたが言語にも原因あると思います。あと会話の間。
そうそう、日本語って語尾でその人のキャラクターを表現するじゃないですか。〜だわよ、〜でござる!みたいな。英語って、それリズムかも。と最近気付きました。恐らくリズムです。抑揚。
言語も、文法、発音、語彙諸々文化と繋がっているし一貫しているからしっぽが掴めるとスルスル上達して楽しいです。

これくらいでいいかな

ああ、才能とか天才って、自分じゃ分からないんですね。最近気付きました。才能とか天才って、いいね!good! great! fantastic!とかの上位版みたいな物なのです、それでいいんです。
ギフテッドとか高知能とかいうもの、嫌いです。意味を持たない言葉ですし早く死語になれば良いのにと懇願しています。自分が天才かどうか知るには、自分としては、ただ事を起こしやるしかないのですね。自分がどうなのかは他人が教えてくれます。

まあ嫌いと言ってもそんな嫌だ、気持ち悪いなどと言ったり自分の能力を自慢げに話し貶す訳でもないのですが。